植物が愛そのものであると気が付いたのは、2015年に初めて奥駈に出た時のことです。しかし、人間が閉じているかぎり、植物が開いた存在だと気付くことはむずかしいことかもしれません。
植物たちは対象なく常に開いた存在です。イケメンにもそうでない人にも、尊敬できる人にもそうでない人にも。特定の対象はなく誰にでも。
この状態を慈悲と言うのだとお坊さんに教えて頂いたことがあります。慈悲とは源泉につながることで溢れ出す愛の最高の状態。
人間の場合は、あの人のことを好きだとか嫌いだとか、好き嫌いがあるもの。そんな人間にも慈悲の状態が起こることがあります。
深い瞑想に入り自分だと思い込んでいた姿が消え去った時、それは起こります。つまり、植物たちは常に深い瞑想の状態にいるということ。
山に入る。それは深い瞑想状態にある植物たちから、ある種のイニシエーションを受けることでもあります。
古代の人々は自然そのものを崇拝してきたし、修験者たちは超自然的な力とされる験力を修めようと山に伏してきました。
瞑想のマスターである植物たちのフィールドなのだから、山での瞑想は深くなりやすい。自然の中にいれば深呼吸できるし、心も穏やかになる。
一方で生産性を高めるためにあれこれ思考しながら、光や音や匂いに溢れた街にいれば感性は閉じてしまう。都心のオフィスや鉄筋コンクリートのマンションやケンカの絶えない家庭であっても、デスクに観葉植物を一個置いてみる。そんな小さなことが、感性を開く大きな一歩のように思います。
デジタルが進化するほど、自然に寄り添う必要性も高まっていく。まずは身近なところから植物に触れてみる。これからの時代に大切なことなのだと感じています。