自分とは何者なのか

「瞑想にはどのような効果があるのか?」と聞かれることがよくあります。瞑想によって集中力がアップしたり、うつ病や不眠症が改善するなど、さまざまな効果があるとされています。

 

そういった瞑想による効果も良いのですが、

それよりも大切なことがあるのだと思います。

 

以前に禅の公案の合宿に参加したことがあります。公案の合宿では、内側に焦点を当て続けて過ごすため、携帯を持ち込むことは許されず、他の参加者と会話をすることもできませんでした。

 

携帯からの情報や外側にいる誰かに意識を向けることもなく、4日間にわたり「自分とは何者なのか?」という問いをひたすら自分の内側に投げかけ続けるというプログラムでした。 

思考・感情・肉体を観察する

頭の中に浮かぶ言語化された思考が始まれば、そこに意識を向け、イライラしたりといった感情が始まれば、そこに意識を向ける。そして、自分の身体に痛みが生じればそこに意識を向けます。

 

いまこの瞬間、自分に起こっていることをその瞬間ごとに観察しているということです。朝起きた瞬間から夜寝る直前まで、いまこの瞬間の思考、感情、肉体を観察し続けていきます。

 

ここで大切なことは、観察が可能であるということは観察する対象と距離があるということです。自分の顔を自分自身で見ることはできないのは、観察する対象と一体化していて距離がないからです。観察というのは、距離があって初めて成り立つものです。

 

自らの思考を観察できるということは、

自分とは思考ではないということです。

 

自らの感情を観察できるということは、

自分とは感情ではないということです。

 

自らの肉体を観察できるということは、

自分とは肉体ではないということです。

 

観察できるものとは距離があり同一ではないので、自分とは思考でも感情でも肉体でもありません。だからこそ「自分とは何者なのか?」ということが問われてくるのです。 

 

自分の内側に誰がいるのか?

誰もが自分の思考、自分の感情、自分の肉体と一体化しており、その状態以外を体験したことがありません。これが自分自身なのだと深く思い込んで生きています。 

 

しかし、結論から言えばこれらの感覚は自分自身のものではありません。これらの感覚を感じている" 誰か "が、もう一人自分の内側深くにいるのです。思考、感情、肉体という、これまで自分が知っている全てではない" 誰か "が内側深くに存在していました。 

 

人間の本性を知る

この内側深くの" 誰か "のスペースからは、訳もなく喜びが溢れ出てきます。良い事があったから喜ぶというのが通常ですが、これは外側の状況に対しての反応です。

 

外側の状況にはいっさい関係がなく、何の理由もなくただ喜びが溢れ出てくる。そんな至福とも言える豊かさの源泉が内側深くにあります。

 

そして、内側深くの" 誰か "から溢れ出てくるものは至福だけではありません。内側深くの同じ源泉から愛も溢れ出ていました。この人が好きだという特定の誰かに向けたものではなく、好きも嫌いもなく、ただ目の前の人がなぜか愛しく思えてしまう。

 

そこには愛する対象はありません。ただただ愛に溢れていて、そうでしかいられないのです。この対象無き、源泉から溢れる愛のことを仏教用語では慈悲と呼ぶのだそうです。

 

また、私とは肉体ではないのですから、生まれることも死ぬこともありません。そこには永遠という領域が感覚として浮かび上がってきます。

 

人は外側の状況が良くなることを喜び、外側の誰かに対しての愛を求めていますが、実はすべてが内側にある。どんな人格者であっても、そうでない人であっても誰にでも内側深くにこの源泉があります。

 

マインドによって、好きと嫌い、幸せと不幸、生と死といった二元の世界を生きていますが、人の本性は至福であり、慈悲であり、永遠であるということです。内側を観察し続けることで、目覚めが起こる一瞥を得ることができました。

 

この体験からも瞑想において重要なことは観察なのだと言うことができます。そして、自分とは何者なのか?という問いを見出すこと。これが瞑想の道なのだと言うことができます。