第三の眼は左右の両目とは別に眉間に存在すると言われる神秘的な眼のことです。サードアイとも呼ばれており、大脳生理学における松果体のことだとも言われています。
この第三の眼が開くと万物を見通すことができるそうです。人のオーラや過去生を見たり、透視や心の中までを見通すことができるといいます。
かつて宗教国家であったチベットには、第三の眼を開く外科手術があると聞きますし、日本においても第三の眼を開くワークショップが開催されているそうです。
オーラや過去生を見たりといったサイキックな能力が開花することも大切かもしれませんが、瞑想における第三の眼の役割は少し違いがあります。
瞑想においての第三の眼の役割は、内側の自己を観照することにあります。第三の眼にエネルギーが集中し始めると、自分自身の思考や感情が動いていることを見守る観照者としての自分が育ち始めます。
私たちは思考や感情と同化していますが、第三の眼が開いていくことで、思考や感情との距離が生まれてきます。
観照の観は、観察の観です。観察とは、距離があって始めて可能となるものです。自分の顔の様に同化しているものは距離がないので、観察することができません。
感情の動きに意識的であることができれば、相手に向かって怒りのエネルギーを無意識の内にぶつける必要もなくなってくるでしょう。
たとえば我を忘れて怒っている時、怒りという感情と自分が同化しています。感情と自分の間に距離がない為、怒りという感情に同一化して自分が飲みこまれている状態です。我にかえると言うように、怒りのエネルギーが放出された後にようやく自分の感情に気付きます。
怒りが湧いたその瞬間の感情の動きに気付いている観照者としの眼があれば、怒りとは距離があるので感情に巻き込まれることがありません。私が怒っているのだと、自分の感情に気付いていることができます。
怒りという感情に対して無意識でいるのではなく、意識的であるということです。これは怒りが湧かないということでもなく、怒りを抑圧することもでもありません。
内側から湧いてきた怒りという感情のエネルギーと一体化することなく、距離をもって見守っているということです。
これは様々な物事にも当てはまります。不安が湧いてくれば不安に巻き込まれ、性欲や食欲が湧いてくれば、その欲望に巻き込まれます。
何かが来ては去っていくようなものに私たちは簡単に巻き込まれてしまうものです。
外側の刺激をきっかけに発生する何かに巻き込まれることのない、内なる中心への気付き。ここに第三の眼を開く意味があるのではないでしょうか。
揺れ動いている自分をただ見つめているとき、自分とは何者なのか?という問いへの答えが見つかることもあります。 観照そのものが瞑想の道でもあります。